「東京−北京」

東京−北京

 

作曲:寺原伸夫

演唱:中国人民解放軍
    総政治部文工団歌舞団合唱隊

伴奏:管弦楽隊

LPレコードジャケットの題字は、郭沫若

 

  

  「県央日中たより」
  2019.2.28発行 第10号   日中友好協会神奈川県連合会県央支部

「東京−北京」 想い出

下山房雄 (日本語歌詞共同作詞者)

85歳の私は70歳代に生涯4度目の職場として、下関市立大学学長の職に二期6年の間、就 くという幸運に恵まれた。下関市あるいは山口県は、極右から極左まで、さまざまな政治思想 から天下国家を論ずる気風のある土地柄である。私が経験した最大の事件は、創立以来 続けてきた大学式典の場での国旗=日の丸掲揚を取り下げようとして、下関内外の 極右=アベの子分どもと激しく争うという闘争であった。 「学問の自由」はお題目的に唱得られることが通例であるが(現行の改悪教育基本法における 「学問の自由」はその典型)、本来、国家からの自由独立を高らかに謳ったものだ。従って、 日の丸が日本のアジア侵略のシンボルだった(せめて桜の花びらを付して反省を 示すべきだというのが私の思想だ)という重い故事を措いても、大学式典に国旗掲揚遥拝はふさわしくない。だが国旗非掲揚という一応の教授会決定を私は強行せず (任期更新の際の必要信任票があと一票不足したら不信任という教授会内の 力関係からしてそれは正しかった)、式典の際に、「この掲揚は正しくない」と言い続けたのである。

 

さて、2004年4月の任期満了を前にして、季刊の「下関市立大学広報」(42号)に私は「私と下関の奇しき縁」と題する一文を書いた。その最後の部分を引用する

−「1954年、私の青年時代、戦後初の中国からの訪日団として紅十字会代表李徳全 一行が来日した。中国を中共と侮蔑的に呼ぶことが支配的な中で、私は一行歓迎運動に 参加した。極右の攻撃から一行を防衛するということで、徹夜でホテルの周りに立った。 また現在でも日中友好運動の潮流の一つで歌われ続けている「東京−北京」の作詞もした。  ところで数年前、本学で「地域論」の講義をして頂いてもいる下関の郷土史家・前田博史さん の著書『混乱の半世紀を探る一下関をめぐる国際交流の歴史』で、李徳全が中国人殉難者の遺骨の下関からの送還に感謝して57年12月再来日、18日夕「かもめ」で 到着する紅十字会一行を歓迎して下関駅前に五星紅旗を手にした市民五百人余が 集まり「東京−北京」の歌声が広がるという風景があったことを知った。当時の私はその後の私の職業人生を規定する修士論文を必死で書いており、下関で そうなっていることなど、2001年まで全く知らずにきたのだ。だがいま下関駅前に立つと、群衆の歌う「東京−北京」の歌声が心に聞え、胸が熱くなる。

−1954年、2019年の今から65年前の昔のことだ。大学2-3年の私は、中央合唱団の19期研究生として、新大久保にある合唱団本部事務所に通っていた。「東京−北京」の作詞者名にある「下山・山本」の山本さんは、電電公社・全電通本社支部の労働者である。 全電通本社支部は、後に千代田丸事件を公社および全電通本部に抗して闘う (1956年朝鮮海峡李ラインの海底電線修理を拒否して3名解雇、68年最高 裁解雇無効判決)戦闘的な職場である。そこから中央合唱団19期生に山本・遊佐の2名が参加していた。 関鑑子先生の発案で李徳全歓迎の日中友:好の歌を作ろうということになり、研究生 等に作詞作曲が呼びかけもされたのだ。作曲者が私と山本さんの歌詞を合成して現行の「東京−北京」を創った。今となっては、どの部分が私のものかは全くわからない。 モスクワ放送として短波で繰り返し放送された。しかしもう遥か昔のことになって しまった、その後の彼我の大激動を経てもなお、この歌が草の根国際交流に役立っているこどは極めて嬉しい。