旧満州の炭鉱 残虐な植民地支配の実態

 遼寧省「阜新炭鉱万人坑死難鉱工記念館」を訪ねて

   菅野正則      

企業の過酷な経営で膨大な労働者が犠牲に

 1931年中国東北部を武力占領した日本は、37年には「満州産業開発5カ年計画」を立て、経済基盤を確立し、満州を北のソ連との戦争の前線基地にするとともに、日本の国力増強のための補給基地にもしようとしました。開発は全産業で企画されましたが、特に豊かな鉱物資源の開発に力を注ぎました。

 炭鉱に限りますと、世界的に有名な撫順炭鉱(日露戦争の後1907年以来日本の満州鉄道の管理下)をはじめとする既存の炭鉱の設備増強や新たな炭鉱の開発が行われました。炭鉱の総数は大小50以上に及び、それを日本のいくつかの企業グループが経営し、与えられた目標(2.53倍の生産増)に向かって大増産体制に入りました。労働者(以下労工・鉱工と呼称)の公募はしましたが、応募だけでは間に合わず、満州全域や日本が支配していた華北などから強制的に労工が集められ各鉱山へ送られました。日本軍との戦いで捕虜となった抗日軍の兵士たちも鉱山に送られています。

 労工たちは収容所のような寮に押し込められ、逃亡を監視され、強制労働と粗悪な食事で体力をすり減らして病没していきました。また安全管理を無視した増産体制のもとで事故も頻発し、さらに劣悪な労働条件に抗議したり反抗した労工は、現場監督や中間管理職の直接暴力や指示で殺されたりし、死者は膨大な数にのぼりました。当初死んだ労工は一人ずつ墓に葬られたようですが、大量の死者はそれでは間に合わず、穴を掘って多数の死者を埋葬したり、谷へ捨てたりして人間を物品のように「処理」したのです。これが後に発見され、「万人坑」と呼ばれるようになりました。旧満州の鉱山の周辺には今でもこの万人坑が無数に存在しています。

 青木茂氏はこの企業による実質的な虐殺に強い憤りを持ち、自ら多くの鉱山の万人坑を訪ねてその実態を調査し、「万人坑を訪ねる」(緑風出版)や「21世紀の中国の旅 偽満州国に日本侵略の跡を訪ねる」(日本僑報社)などの著書を著しています。青木さんの書によると日本の統治下で犠牲になった労工の数は、遼寧省の撫順炭鉱で25万人、本渓炭鉱鉄鉱(製鉄所を含め)13.5万人、阜新炭鉱で7万人、北票炭鉱で31200人、大石橋マグネサイト鉱1.7万人、弓長嶺鉄鉱1.2万人、さらに吉林省の遼源炭鉱では8万人以上というすさまじい数にのぼります。これは残っている資料、満州国の「日満商事調査統計月報・満州炭鉱資材読本別冊」という本に資材の消耗品として記載されている労工の死者数から推計したようで、この数字は中国でも一般化されています。

 

「阜新万人坑死難鉱工記念館」を訪ねる 特別の案内に感激

 私はこの企業による労工虐殺の現場を是非この目で確かめたいと思いました。傀儡政権のもとでそれに反対する抵抗活動は満州の各地であり、それに対して日本の軍警が残虐な弾圧を加えていたことはよく知られていますが、企業による事実上の虐殺行為は具体的にはほとんどの人が知らないからです。また阜新を選んだのは、私と親交がある西岡瑞江さんは、お父様が阜新炭鉱に勤務し、瑞江さんは炭鉱病院で看護婦をしていて終戦を迎えました。瑞江さんは進駐してきた国民党の兵士と結婚し新京(長春)へ移動したため家族と共に帰国できず、残留婦人として28年間中国に留まり、国共内戦や新中国建設後に起った激しい社会変化の中で大変な辛酸をなめ、1974年に帰国しています。西岡さんは自分の中国での体験を手記として残していますが、阜新での終戦までの生活は当時の本土とは比較にならないほど穏やかでした。その穏やかだった生活の場で、当時滞留していた日本人のほとんどが知らなかったのでしょうが、惨たらしい労働実態があったのです。その阜新の「万人坑」を私は是非見たいと思っていました。

 2016611日、私は日本中国友好協会神奈川県連合会の仲間2人と共に瀋陽の旅行社・趙玉奇さんの案内で、瀋陽から220キロ西の阜新へ向かいました。高速道路を使っても3時間かかりました。車が「阜新万人坑死難鉱工記念館」に着くと、張宝石館長をはじめ10名くらい館員の人たちが出迎えてくれたのにびっくりしました。この日は中国では端午の節句の3連休最後の休日でしたが、私たち日本の友好組織の者たちが来るということで特別に開館してくれたということをこの時にはじめて聞き、感激しました。記念館は「遺址陳列館」と「遺骨館」の二つの建物に分かれていて、建物は新たに作り替えられて昨年8月開館したもので、ゆったりとしたスペースがある立派な建物です。記念塔も全面改修されたそうです。

 

陳列館の展示を参観し、記念塔へ

 館長さんと説明員の案内で私たちは陳列館に入りました。陳列館の展示は「掠殺・抗争(19311945)」と書かれた文字から始まります。関東軍の満州占領、阜新の占領、満州炭鉱株式会社による経営支配、労工の実態、労工の抵抗や逃走時の戦い()、満炭墓地、万人坑、が写真や地図、数字を使って分りやすく展示され、陳列館の中ほどには当時の炭鉱の市街を模した大きなジオラマがあり、その中ほどにDVDで当時の労工たちの苦難に満ちた姿と逃走時の戦いを描いた動画も流されていました。阜新炭鉱を満州炭鉱が経営しはじめたのは1936年で、当年の出炭量は7625万トンでしたが、1944年には41202万トン(54)にまで拡大しています。その間いかに安全を無視して労働者をしゃにむに生産にかりたてたかということは、この数字を見ただけでよく分ります。またシェパードを訓練している写真がありました。逃亡労工の捕獲にシェパードが使われようで、一人の労工がささいなことをとがめられ、シェパードの檻に投げ込まれてかみ殺されたのを見たという生存者の証言(青木茂著・万人坑を訪ねる)もあります。

 陳列館を見学した後、私たちは会議室へ案内され張館長から阜新炭鉱と記念館全体の説明を受け、その後献花する花輪に対聯を書き、記念塔へ向かいました。この記念館の敷地は5697万平方メートルに及ぶ広大なものです。記念塔は陳列館の後ろの小高い丘にあり、高さが10m以上もある立派なもので、そこから遠く阜新の町が見えます。

 花輪の対聯には次のように書きました。「不忘残酷的事実  銘記工人的痛苦  反省 追悼」

 

労工たちの苦難の表情がにじみ出ている「万人坑・遺骨館」

 次いで私たちは陳列館から45百メートル離れた所にある「万人坑・遺骨館」へ向かいました。陳列館のすぐ先はまばらな雑木林が続いています。ここは阜新に4つある「満炭墓地」の一つだそうで、陳列館で見た写真では縦に長く無数に墓穴が掘られていて、その列がたくさん並んでいました。今は遺骨も回収され雑木林になっているようです。

 「万人坑」は並んで建つ二つの立派な建物に保存されています。一つは「死難鉱工遺骨館」。もう一つは「抗暴青工遺骨館」です。「鉱工」の万人坑は生き残っていた労工の証言によって1968年発掘され、「抗暴青工」の発掘も同年行われ、遺骨は手を加えず発掘された状態のまま保存されているそうです。

 鉱工の遺骨は53体、横にほぼ67体ずつ並べ、縦に長く続いています。遺骨の形状は様々で、右手を挙げて苦しみを訴えているような遺骨、膝の骨が砕けている遺骨(事故死)、両手が膝の下にきている遺骨(体を曲げて縛られて拷問を受けた)、はいずりのままの遺骨(生きたまま埋葬された)など当時の労工の苦痛を体全身で訴えているようです。

 「抗暴青工」の遺骨は特殊な事件の犠牲者です。当時八路軍に加わり関東軍と戦って捕虜になった兵士たちが阜新に送られ、特殊工として酷使されていました。その労工295名が、1942815日集団で脱走を試み、駆け付けた警備隊や軍と戦いました。逃亡出来たのは67名、5名が重傷、45名が殺され、残りの人たちは捕らえられて牢獄へ送られ、厳しい取り調べや拷問で次々と死んでいきました。その死んだ人137名を12月トラックで運び、石炭を燃やして凍っていた表土を溶かし、穴を掘って一列に並べて埋葬したのがこの「万人坑」だそうです。表面の遺体は83体、多い所は5層に積み重ねられているということです。骨格から判断して20代の若者がほとんどだそうで、遺体の中には手を喉の中に入れているものもあり、拷問のひどさを表しています。鉱工の遺骨と同じようにはいつくばっている遺骨もありました。生きたまま埋められたのでしょう。ここには口を開けて何かを叫んでいるような遺骨がたくさんありました。祖国の解放を目指して戦った若者たちの無念の叫びが一つ一つの遺骨から伝わってくるのを覚えました。

 この万人坑は撫順の平頂山の万人坑と違い、無残な虐殺の現場ではありません。「人すて場」なのですが、遺体は死んだ時のままの姿で並べられています。遺骨の表面がきれいに清掃されていることもあって、亡くなった時の様子が想像させられます。その時の苦しさ、くやしさ、怒りや恨みをそれぞれの遺骨が全身で表しているように思えました。私たちは声をのんで遺骨を見守り続けるとともに、こういう犠牲者を出し続けた日本の企業と、実質的人狩りまでして、支配下の中国の人たちを鉱山へ送り込んだ日本軍国主義に対し、こらえきれぬ怒りがこみあげてきました。館員の人の話によるとこのあたりには発掘されていない万人坑がまだたくさんあるそうです。

 参観を終えて別れる時、張館長は私の手を握って次のように言いました。「お年を召した身で(全員65歳以上の高齢者)ここまで来ていただいて感謝しています。私たちはこの事実を多くの日本の人たちに見ていただきたいのです。どうぞ阜新にいらしてください」。私たちはこの言葉に深く同感して記念館を後にしました。

 「歴史を鑑とする」という言葉はこの陳列館にも書いてありました。「五族協和」の美名のもと、企業と軍が一体となって植民地の財産を奪い、人民を紙屑のように使い捨てて死に追い込んでいった日本帝国主義の支配の実態を、私は阜新で見ました。多くの方々に是非その事実を確かめていただきたいと思います。

 

追記―西岡瑞江さん・亡くなった人は数えきれないほどいたでしょう

 阜新から帰った後、私は阜新炭鉱病院で看護婦をしていた残留婦人西岡瑞江さんを訪ね、現在の阜新の様子を話すとともに、炭鉱で多くの人たちが事実上虐殺されたことを話しました。それに対して瑞江さんは次のようおっしゃいました。「私は炭鉱病院の本院にいて、本院では中国人患者を診療しませんでしたから、中国人の患者に接したことはありません。しかし分院へ行った時、死んだ労働者の家族がその人にすがって大声で泣いているのを見て悲しくなりました。当時日本人は中国人を下に見ていたので、無関心を装っていましたが、私はそういう気持ちはありませんでした」。「当時の炭鉱はダイナマイトを使って炭層を爆破して採炭するというやり方でしたから、事故が起きるのは当然です。亡くなった人はおそらく数え切れないほどいたでしょう」。これが当時阜新にいた日本人の一般的認識だったのでしょう。

2016年10月